『努力は裏切る』
という人と
『努力は裏切らない』
という2タイプの人がいます
裏切ると考える人にはその人なりの意見があり
裏切らないと考える人にはその人なりの意見があります
僕の意見としては
『どちらかというと裏切らない』
じゃないかなと思います
裏切るか裏切らないか
というのはどことなく「損得感」があるように感じます
裏切られないから努力する
裏切られるなら努力しない
という感覚を含んでいるような気がしてなりません
イチローさんは
『努力は報われますか?』という質問に対してこう答えておられます
「報われるとは限らない。
もっと言えば、努力と感じている状態は、まずい。
その先に行けば、きっと人には努力に見える、でも本人にはそうじゃない。
そんな状態が作れれば、勝手に報われることがある、ということ。」
多分ですが
「自分自身で“努力”と感じているようではまだダメだ」
と僕は解釈しました
努力の向こう側
努力を続けていく内に超える向こう側
長距離のランナーズハイに近いようなものになれればそれは最早“努力”ではなくなるということ
それだけ“夢中”になれれば自然と報われるということなのでしょう
しかしそれも経験からくるものでしかなく「正しい答え」であるかとは別なのではないかと思います
また努力の位置というか量というか「どれだけ」努力したかというのも各々の個人差があるように思います
ある人は「それだけ努力したのなら十分だよ」というがある人は「そんなんじゃまだまだ足りないよ」というかもしれません
そこの線引きは難しいところです
つまり自分が『どこで線を引くか』ということでも『報われる』か『報われない』ということも変化するのではないかと思います
努力することに対してゴールの位置というものでも変化してくると思います
例えばですがサッカーを習っています
とりあえず
『サッカーのルールを覚えてサッカーができるようになること』
『全国大会に出れるようになること』
『プレミアムリーグに入ること』
極端ではありますがこの3つではゴールの位置が違います
どこまで努力するのかというところは人によって違うため難しいところです
「別にサッカーは趣味だし」
という人もいれば
「プロになりたい!」
という人もいるわけです
そう考えると結局のところ何事も自分で決めるしかないということに繋がるのではないかと思います
何事でもそうですが感覚や基準値、価値観ってなかなか他人と重なる部分ってないと思っています
20年来からなる友人がいますがやはり相反する部分というのはあります
皆さんの中にも誰かと話をしていて
「あーそれは自分とは違うなぁ」
と感じることがあると思います
それと同じことで努力の度合いも人によって様々だと感じます
「すごい!そんなに頑張ったんだ!」
と言われることもあれば
「えーまだそれぐらいなの?それじゃぁダメだよ」
と言われることもあるでしょう
それは他人と比較するとそういう答えが返ってくるのは当然なことです
だからと言って比較することでもないのかなと思います
もちろん「目的が何か」によるかもしれませんが基本的に『自分は自分』というスタンスで動く方がいい結果につながることの方が多いのではと思います
方向性にもよりますが誰かと比較した努力は本当の力が身についているとは限りませんしその人と同じことで努力をしても意味が少ないのかなと思います
比較した努力をするなら別の方向性で努力した方がいいと思います
「一生懸命努力したけど実らなかった」
「頑張っけど結果に結び付かなかった」
もしそうだとしてもその努力は無駄ではありません
きっとどこかで役立つ時がきます
賽の河原になることはありません
だから無駄なことだなんて思わずに自分の気が済むところまで頑張ってみたらいいのではないでしょうか
人生一度きりです
他人に迷惑をかけないことなら何をしたって自分の自由です
もっと気楽に生きてもいいんじゃないかなと思った1日でした