鳥と魚と僕とポーク

実るほど頭を垂れる稲穂かな

人と違う時に「自分が変わっている」と捉えるか「他人が変わっている」と捉えるか

人が感じるポイントというのは違います

それは当然のことです

 

過去に「兄弟でも人格は違う」的なことを書いた通り

ほぼ同じ環境で育っているはずなのになぜか似ていない部分というものが存在するわけですから全く赤の他人が似ているはずがありません

 

共通部分というものはあれど

90%感覚が似ている

というのはなかなかいないと思います

 

そんな中で「どこかツボが違う」なんて感じることはありませんでしょうか

 

誰かが何か面白いことを言った時に

その発言を“面白い”と感じるか“面白くない”と感じるか

この場合に周りは笑っているけど自分にとっては特に面白いと感じない

なんてことがあります

 

こういう時に「自分が変わっているのかな」と感じるか「他人が変わっているのかな」と感じるのか

(“変わっている”という表現が正しいかはわかりませんが“他人と違う”という意味合いで使っています)

 

周りの人数にもよると思うのですが

10人いて自分1人だけだとしたら自分が変わっているのかもしれません

 

ただ「本心では面白くないけど“空気感”に飲まれて笑っている」という人もいるのかななんて思いました

 

つまり作り笑いということになるのですが

もしそうだとしたらやはり同調圧力に屈したんだなと感じます

 

なぜか周りから外れた人は煙たがられる傾向にあります

それは「協調性がない」という言葉で片付けられてしまいます

 

話を戻して面白くないものを無理に面白いという

または面白いと言わせる空気感というのは良い環境とは言えないのではないかななんて思います

 

僕はどちらかというと「自分が変わっているんだな」と捉える方です

というのも色んな人から「変だ」と言われ続けてきたことがバックグラウンドにあるからかもしれません

 

別に“変”と言われても嫌な気持ちはしないので今まで気にせずやってこれたのかもしれません

 

変な人は時に厄介な存在ですが

時にはとても良い存在になり得るからです

 

無理に変になる必要はありません

しかし人と違った観点を持っているという意味では少し変なぐらいがいいのかななんて思いました

 

まぁ8割嫌われる方が多いですから諸刃の剣的な感じですが

 

 

「変わっててもいいんだ」という世界観をもっと拡大できればいいななんて思います