鳥と魚と僕とポーク

実るほど頭を垂れる稲穂かな

日本語の難しさ。そして、変化する日本語

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世界で難しい言語というものがあります

などなどあります

日本語というのはそれだけ難解な言語であるということはそこそこ有名な話だと思います

 

漢字、ひらがな、カタカナ

大きくこの3種類

中には和製英語なんていうのも存在しますから

それを含めるとすれば

4種類の言葉を使って成り立っています

 

ただでさえ複雑な言葉を使うのにオノマトペなんていう擬音語まで巧みに使うのですから

 

以前もこういった「日本語の難しさ」のようなことを書いたことがありますが

先日Abemaをみていたら『日本語の認識が変わってきている』

というような面白いテーマを見つけました

 

この動画の中で「1時間弱とはどれぐらいの時間か」というような話になり街頭インタビューをとったところ

50分ぐらいという人が多い中で1時間10分ぐらいという男性がいました

 

この認識の差が様々なところで起こっているようです

 

『撮影はご遠慮ください』

という言葉も「1.2枚ならいい」という認識を持っている方がいるとか

「遠慮=控える」だと認識している方が一定数いるようで

 

他にも「本来の日本語の意味」とは違った意味を持ち違った意味のまま使われるということが起こっているかと思います

 

また『重複』という漢字を「じゅうふく」と呼ぶなど読み方も変化してきている部分もあります

 

こうなるとただでさえ複雑な日本語がますます複雑化しております

 

どこでどう変化してしまったのかわかりませんが変化してしまったことで「人とのコミュニケーションツールであるはずの言語」にズレが生じているとなるとこれはそこそこ重大な問題ではないのかなと思います

 

互いの認識の中でズレが生じているということは話が噛み合わないということになり

問題の発端になり得る可能性が生まれるわけです

 

なぜ日本語の認識や感覚、意味が歪んできたのでしょうか

例えば

『雰囲気』という言葉があります

ふいんき」という人が多い印象ですが

実際は「ふんいき」と読みます

 

『重複』という言葉も

「じゅうふく」と読む人もいれば「ちょうふく」と読む人もいます

 

これと同じようなことが日本語の意味の部分でも起こってきているのでしょうか

もしかするとこれもバイアスというものから生まれてるのではないかなと感じます

 

僕は今地元を離れ別の土地で仕事をしています

地元の方言というものもあり

最初は相手の言っていることを理解するのに苦労した部分もあります

そうした土地の言葉みたいなものが意味の変化にも繋がったりするのかなと

 

色々な記事やブログなどで見かける

「これからより一層コミュニケーション能力が重要視される」

なんてことを目にします

 

正確な意図を伝えるためには受け取り手の読解力も必要ではありますが

伝え手の話し方も注意する必要があるかもしれません

 

また自分が伝える側の場合

正しく伝わっていることを確認することも意識した方がいいかもしれませんね