「不登校の自由」を主張していた冒険家のゆたぼんさんがXにて
不登校の子供達をめぐる議論で持論を展開していました
「学校へ行く権利を持っているあなたは、学校へ行かない権利も持っています。もう一度言います。学校へ行かないことは、あなたの権利です」
と言いつつ
「誰もあなたの人生の責任は取ってくれません!」
などとポストして話題になっていました
これに対して
「今はとにかく学校から逃げること。将来は何とかなる」
といったポストが寄せられました
ゆたぼんは
「内閣府の調査では、日本には146万人の引きこもりの人がいるそうです」
「『将来は何とかなる』という言葉だけを信じて、何ともならないまま逃げ続けて引きこもりの大人になってしまい、誰にも相談できずに今も苦しんでいる人がいると思うのですが、その人達の人生はいつ『何とかなる』と思いますか?」
と投じていました
『何とかなる』
僕もよく耳にする言葉です
仕事などでミスをしてしまった時とかに聞くかなと思います
この「何とかなる」という言葉ですが
捉え方によってはとても冷たいというか
他人事に感じるというか
もちろん物事の規模によりますが
使うタイミングや言い方、人柄などとても複合的な要素が絡み合う言葉だと思います
極端な例ですが
なんの苦労や何のミスもしていない人から「大丈夫!何とかなるよ!」と言われても「所詮他人事だろう」と感じる人もいるでしょう
これは僕の印象ですが
本当に色々な苦労やたくさんミスしてきた人は簡単に「何とかなる」という言葉を使わないように思います
また最終的に何とかなったとはいえ気軽に他人に使っていい言葉ではないんじゃないかなとも思います
なんか「何とかなる」って無責任な言葉だなと感じるんです
自分に言い聞かせるために使うなら全然いいのですが誰かを励ますつもりとかで使うにはあまりにも無責任というか
今回ゆたぼんさんも言ってますが
「何ともなってない人」というのがいるのは事実なわけでして
結局“なんとかなるかどうかは自分次第”という部分がこの言葉には含まれているように思います
なので
誰かに対していう言葉ではないんじゃないかなと
今までの人生本当に苦労をしてきた人がいたとします
その人の人生は何とかなったかもしれませんが
その何とかなった場合が誰にでも通用するわけではなく実際に「何とかならない」状況もあるわけで
僕も色々と大変な生活をしてきた時がありました
もちろんそれをひけらかしたり武勇伝のように言うつもりは一切ありません
僕自身人生で色々ありましたが確かに何とかなってきたから今の自分があります
そういう意味では何とかなると言えます
しかし
僕の人生における苦労さ、大変さ、不幸さというのは万人に理解されるものとは限りませんから
安易に何とかなるとは言い難いものだと思います
少し話が乱れてしまいましたが
要するに
『何とかなる』というのは
“どちらかというと”他人に使う言葉ではなく自分に使う言葉なのではないかなと思います
自分の人生は誰も責任取ってくれません
自分の人生の責任は自分で取るしかないんです
他責思考の人が多いということをこのブログでも何度か書いておりますが
自分の人生まで他責思考にする人がいることも現実にある話です
「あいつのせいで左遷になった」
「あいつのミスで自分までクビになった」
みたいな話はない話ではありません
自分の人生すら他人のせいにできてしまう人が簡単に「何とかなるよ!」とかいう気がします
そういう「何とかなる」という言葉に深く向き合っているゆたぼんさんはすごいなと思いました
誰よりも人生を真剣に考えている人が本当の意味で何とかなるのではないでしょうか